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    「生き延びた命、尽きるまで」津波で全財産失った居酒屋ママ、仮設店舗経てがん闘病の現在 #知り続ける(2026年3月10日)

    「久しぶりだねー。『太った』って電話で話していたけど、全然変わらないわよ」これまでと変わらない満面の笑みで私を出迎えてくれたママ。しかし、お世辞を言ってくれた彼女自身は、痩せ細っていた。去年7月、がんが見つかっていた。2012年、岩手・大船渡の仮設屋台村で出会ってから、本店舗への移転、新型コロナ禍…“被災地のいま”をママの言葉を通して伝えてきた。政府補助金の終了、人口減少など、震災から15年が経ち、被災地には厳しい現実が突き付けられている。それでもママはカウンターに立ち続ける。「生き残った命、やれるだけやる。お客さんが来てくれるから」
    (テレビ朝日報道局 松本健吾)

    ■津波で家も店も…全てを失ったママ

    岩手県大船渡市にある居酒屋「どんぐり」の店主・梅澤優子さん(76)は、かさ上げされた上に立つ商店街の一角に、小さな店を構えている。震災前は、市内の別の場所でスナックを経営していた。あの日、店で営業に向けた準備をしていた時に強い揺れが襲った。吹き飛ばされるほどの強い揺れ、慌てて店の外に出たという。「津波が来る」地元出身の従業員の男性が、チリ地震の津波の記憶から梅澤さんに心構えを説いていたという。すぐに車に乗って、内陸へ避難しようとしたが、渋滞が起きていて動けなくなった。梅澤さんは向きを変え、川沿いに車を走らせ、何とか高台にたどり着いた。大船渡市を襲った津波の最大の高さは11.8m、港に隣接する地区は壊滅的な津波被害となった。大船渡市の死者・行方不明者は合わせて400人を超える。梅澤さんは店の2階に住んでいたが、建物ごと津波で流され、全財産を失った。

    ■仮設屋台村で再出発 復興作業員の癒しに

    梅澤さんは避難生活を送っていたが、プレハブで作られた仮設店舗が集まってできた「屋台村」での再出発を決意した。震災の年の12月から営業を始めた。私が出会ったのもその頃だった。東北3県の沿岸部に点在する被災地を定点撮影して記録するプロジェクトで大船渡を訪れた。当時はまだかさ上げも進んでおらず、夜になれば街の明かりをカメラは捉えることはなかった。そんな中でも、ポツンと灯る屋台村の提灯の明かりが目を引いた。その灯りを頼りに訪ねた先が、梅澤さんの店だった。10席にも満たない店内は、満席。そのほとんどが復興作業員だった。


    「ここがあるから、仕事をやっていける。オアシスだよ」
    「毎日ここにきているよ。ママに会いたくて」

    梅澤優子さん
    「お客さんが来てくれるだけで嬉しいの。一度じゃなくて何度も来てくれるから。それが嬉しくて。お客さんとの出会いは一期一会。ここの屋台村がなかったら、出会うこともなかったんだから」

    ■仮設店舗から自分の店へ “新型コロナ”で客ゼロに…

    2016年、再び店を訪ねると、客席に空席が目立っていた。かさ上げ工事が完了し、復興に向けて動き出した被災地。一方で、復興作業員の数も少しずつ減っていた。住民もまだ戻ってきてはいない。

    梅澤優子さん
    「街から人が少なくなっているし、寂しい感じがしますね」
    「お客さんは来るのかしら、どうなのだろうなっていう不安が、 今一番ある」

    2017年、梅澤さんは仮設店舗を出て、かさ上げされた場所に新たに建った商業施設内に自分の店を構えた。ようやく店の経営が軌道に乗りかけた時、被災地に影を落としたのが新型コロナの蔓延だった。客足は遠のき、売り上げがゼロの日が続いた。自粛要請も重なる中、新店舗のための借金は、精神的にも大きな負担になっていた。

    梅澤優子さん
    「営業できなくても、家賃は発生する。今まで 仮設店舗の時でさえも、お客が1人2人しか来ないということはなかったけど…今はゼロ。初めての経験。将来どうするって聞かれても、何にも答えることができない。耐えるしかないよね」

    ■「大腸がん」ステージ3、転移も… それでもカウンターに立ち続ける理由

    震災から15年。2026年3月、再び梅澤さんの元を訪ねた。出迎えてくれた梅澤さんは、すっかり痩せていた。去年7月、「大腸がん」が見つかった。ステージ3と4の間、リンパ節への転移も確認されたという。手術で大腸の2か所を切除、しばらく入院生活を余儀なくされたが、退院後すぐに店を再開させた。
    「だって、毎日17時に必ず来るお客さんがいるのだから。その人たちのためにも、早く開けてあげないと可哀そうじゃない。みんな話し相手を求めているのだから」いま、梅澤さんの店の客のほとんどは地元の人だ。この日も、開店1時間も経たないうちに満席となった。お通しで出てくるまぐろの刺身は、同じ建物内で店を構える魚屋さんで手に入れる。

    魚屋の店主
    「ずいぶん調子が悪そうだね」

    梅澤優子さん(76)
    「調子悪く見える?嫌だー、普通なんだけどね」

    店と魚屋は100mほどの距離。それでも、私の腕をつかみ寄りかかるようにゆっくりと歩く。その姿はこれまで見てきた梅澤さんとは違っていた。

    ■体調次第で店は不定休に、それでも店を開ける理由

    「今、お店は不定休なの。お客さんがいる時は、1時くらいまで開けることもあるけど、体が疲れちゃった日には、休みにして、一日中寝るようにしている。2日連続で休むことがないようにしないと」手術のあとも経過観察は続く。食べる物にも多くの制限があるという。しかし、それでもカウンターに立ち続けなくてはいけない。休んでも休まなくても、食材を保管するための冷蔵庫や店の賃貸料、カラオケ設備のリース料など、固定費として月10万円以上は消えていく。アルバイトを雇う余裕など全くない。

    今、被災地には「2026年の壁」が立ちはだかっている。人口減少、復興予算の減額、債務の返済期限、物価高など、梅澤さんのような高齢の個人事業主にとっては、継続か閉店、の岐路に立たされている。大船渡市の人口は、1995年には約4.6万人いたが、2024年には3.2万人を下回った。高齢化率は約4割、若年層の流出が止まらない現状もある。商工会議所の関係者は「震災時50歳だった現役世代は今65歳、自身の体力・健康との勝負になっているが、後継者がいない。『後継者がいないなら再建を諦めろ』とは当時、誰も言えなかった。その問題が15年経って、いよいよ噴出している。そこに震災融資の返済に加えて、その後の新型コロナ対策融資の返済も重なり、「二重・三重の債務」が経営を圧迫している」と話す。実際に、梅澤さんの店が入る商業施設でも、高齢夫婦が2人で切り盛りしていた店が店を畳んでいた。

    ■「生き残った命、やれるまで。お客が求めているから」

    カウンターを埋め尽くす客の平均年齢は70歳くらいだろうか。カラオケで流れるのはもちろん演歌。店で提供される料理は、昔に比べたら品数は減ったかもしれない。お酒を作るスピードもゆっくりだが、誰も急かしたりはしない。ゆっくりと時間が流れていく。

    「震災から15年経って、何か変わりましたか?」

    梅澤優子さん(76)
    「震災の話はあまりしないね。忘れたわけではない。でも話をすれば震災の時のことを思い出すことになるでしょ。きょうは、両親を津波で亡くした人も来ているから。みんな、よく普通にしていると思う。私はそういう人の癒しになってあげたい」

    「この店をいつまで続けたいですか?」

    梅澤優子さん(76)
    「できるだけ、やれるところまで続けたい。身体が続く限りだね。津波から生き残った命だから。この場所を、みんなのためにとっておいてあげたいから」
    インタビュー取材を終え、大船渡を離れる前に2人で写真を撮った。12年前、仮設屋台村の小さなカウンターで撮った写真と同じアングルで。「時の流れを感じるね」と2人で笑いあった。

    これからもママの言葉を通して、被災地の“いま”を伝えていきたい。

    ※この記事は、テレビ朝日とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
    [テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp

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