【やさしく解説】ドイツ極右政党「AfD」
独ザクセン=アンハルト州議会選挙での極右政党AfDの集会(写真:ロイター/アフロ)
2026年9月6日夜、旧東ドイツ地域のザクセン=アンハルト州で、35歳のウルリヒ・ジークムントは支持者の歓声に包まれていました。州議会選挙で、右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が43.8%を獲得。2021年の20.8%から倍増し、州議会83議席のうち39議席を占めました。単独過半数まであと3議席という圧勝です。そして、州議会AfD会派の代表ジークムントは、東部マクデブルクの劇場で勝利宣言を行い、「AfDには州を統治する権限が与えられた」と宣言しました。
ジークムントは、かつての極右政治家のような威圧的な姿を前面に出しません。TikTokのフォロワーは約80万人。経営心理学を学び、いつも短い言葉と柔らかな口調で語りかけます。彼はかつて、商店や老人ホーム向けに香りを拡散する装置を売っていました。経営心理学で学んだのは、よい香りの場所では人が長く滞在し、商品に心を開くということだった、と本人は語っています。その技法を、今度は政治に持ち込みました。笑顔、短い動画、親しげな雰囲気。しかし、そのSNSの向こうで売っているのは、芳香ではありません。
政権発足後の「100日計画」には、滞在権のない外国人に対する「初日からの送還」、残留見込みのない難民児童の別クラス化、庇護申請者への就労義務、公共放送制度の中止、政治財団への公費停止、公共施設での国旗掲揚の義務付け——といった項目が並びます。穏やかな包装の内側にあるのは、移民、教育、報道、文化を「誰がドイツ人か」という基準で組み替える構想です。その一方、同州のAfDは、州憲法擁護庁から「確実な右翼過激主義」と認定された存在です。
時にはナチスと比較されることもあるこの右派政党は、いったいドイツをどこへ導こうとしているのでしょうか。「AfD」をやさしく解説します。
AfDは「教授たちの党」として始まった
AfD(Alternative für Deutschland)が誕生したのは、2013年です。
当時、欧州はギリシャの債務危機に端を発したユーロ危機のさなかでした。ドイツ政府はギリシャなどへの金融支援を行い、ユーロ圏を守ろうと積極的に動きましたが、結党時の党首でハンブルク大学の経済学者ベルント・ルッケらは、これに強く反対しました。そのうえで「ユーロ圏の秩序ある解体」を唱えたのです。初期のAfDでは、大学教授や経済人が専門用語を交えて通貨制度を論じたため、「教授たちの党」と呼ばれました。
結党年の2013年、連邦議会選挙における同党の得票率は、わずか4.7%でした。議席獲得に必要な5%に届かない惨敗です。しかし、結党から約7カ月で200万票以上を集めたことで、既成の保守政党の外側に大きな空白があることも示したのです。
党の運命を変えたのは、2015年の難民危機でした。中道右派のCDUを率いながら、難民受け入れでは比較的リベラルな判断を下したメルケル政権に対し、AfDは「反移民・反イスラム」を前面に押し出し、支持を拡大していきます。
しかし、AfDの行方はその後、二転三転します。同年7月の党大会では、創設者ルッケがフラウケ・ペトリーとの党首選で敗北。自分がつくった党を離れたルッケは、「AfDが排外主義的な抗議政党へ変わった」と批判を強めました。
ルッケを退けたペトリーも、2年後には党を去ります。AfDが2017年の連邦議会選挙で12.6%を得た翌朝、ペトリーは記者会見の席で突然、AfD会派に加わらないと表明しました。党のさらなる右傾化を止められなかったためです。
AfDでは、選挙に勝つたびに穏健派が去り、より急進的な勢力が残りました。普通なら過激な主張を弱めて、より幅広い支持を集めようとします。ところが、AfDは反対に、右へ進みながら支持を増やしたのです。ドイツ連邦政治教育センターはその歩みを「反ユーロ政党から右派ポピュリスト、さらに極右を含む政党への変化」だと指摘しています。
