山種美術館で「奥村土牛 ―名作でたどる100年のあゆみ―」を開催
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2026.9.15(火)
奥村土牛《鳴門》1959(昭和34)年 紙本・彩色 山種美術館
淡く、やさしく、あたたかな風景画や動物を描いた作品で知られる日本画家・奥村土牛(1889-1990)。山種美術館の創立者・山﨑種二は土牛と50年以上におよぶ親交を結び、その縁により山種美術館では《鳴門》《醍醐》などの代表作を含む土牛作品135点を収蔵している。美術館では開館60周年を記念し、「奥村土牛 ―名作でたどる100年のあゆみ―」を開催。初期から最晩年まで土牛の活動の全貌を紹介する。
「土牛石田を耕す」が雅号の由来
1990年に101歳の天寿を全うした日本画家・奥村土牛。素朴であたたかみのある「土牛」という名が珍しく感じるが、この名は出版社を営んでいた父親が授けた「雅号」。中国の僧・寒山の詩の一節「土牛石田を耕す」にちなんだもので、その名の意味を「牛が石ころの多い荒れ地を根気よく耕し、やがては美田に変えるように」たゆまず精進することと受け止めた土牛は、生涯かけて地道に画業を歩んだ。
「名は体を表す」といわれるが、「土牛」の雅号はまさに奥村土牛の人物像と人生を表すものとなった。奥村土牛は1889年(明治22)に東京都に生誕。生まれつき体が弱く、子どもの頃は外で遊ぶよりも友人と家で絵を描いて遊ぶことが多かったという。16歳のときには父の紹介で画工の青年と知り合い、彼の師であった梶田半古の画塾に入門。画塾では生涯の師と仰ぐことになる兄弟子・小林古径に出会い、古径を見習って写生に励んでいる。
その後、土牛は展覧会への出品を続けて画力を高めていくが、その間には逓信省に5年ほど勤務し、統計図やポスター、絵葉書などの制作を担当した時期もあったという。
奥村土牛《城》1955(昭和30)年 紙本・彩色 山種美術館
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日本画家としての確かな地位を獲得したのは、大正から昭和へと時代が変わり、土牛が30代後半を迎えてから。1927年(昭和2)、再興第14回院展に《胡瓜畑》(東京国立近代美術館)が初入選。以降、1931年(昭和6)の再興第16回院展まで5年続けて入選し、翌年には日本美術院同人に推挙されている。
