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1986年から1993年にかけて、日本の半導体メーカーは市場シェアで米国企業を上回っていた。1970年代末から勢いを増した日本の半導体は、やがて米メーカーを追い詰めるようになる。1980年前後には、「日本脅威論」が米国内をにぎわせ、1986年には米国政府が日本政府に働きかけて日米半導体協定が結ばれた。しかし現在、形勢は真逆の状態にある。この間に何があったのか。国際技術ジャーナリストの津田建二氏が読み解く。
超LSI技術研究組合とセマテック(SEMATECH)
日本の半導体が強くなった理由の一つが、1976年に発足した超LSI技術研究組合の設立だ。この組織は64KビットDRAM(半導体メモリー)の商用化を後押ししたとされ、米国でも法律を改正し1987年、日本の取り組みをモデルにセマテック(SEMATECH:Semiconductor Manufacturing Technology、半導体共同開発機構)を発足させた。設立時の政府資金は国防総省(DoD)が拠出し、傘下の国防高等研究計画局(DARPA)が監督した。
設立当初は、IBM、インテル、モトローラ、AMD、マイクロン、テキサス・インスツルメンツ(TI)などの半導体メーカーに、コンパックやヒューレットパッカード(HP)などコンピューターメーカーを加えた14社で構成されていた。参加企業は、売上高の1%を出資し、各社の出資額は年間1500万ドルを上限としたという。
だが、資金力のない米国の半導体スタートアップたちはこれを「金持ちクラブ」と呼び、大手半導体企業しか恩恵を受けられなかったことに反対した。セマテックはその後も続いたが、1996年を最後に連邦政府からの支援は打ち切られた。
セマテックは本当に米国復活のかぎだったのか
セマテックが米国半導体の復活に貢献したという声は、日本に多い。しかし自由競争を掲げる米国で、本当に政府頼みのプロジェクトで半導体産業は復活したのだろうか。筆者はずっと疑問だった。
セマテックメンバーの1社であるインテルは、いち早く1985年にDRAMを捨てマイクロプロセッサーの高性能化にまい進したことが功を奏した。当時のインテル副会長、ロバート・ノイス氏が東京都内での記者会見で、「DRAMはもはやコモディティになってしまった。取り扱うべき製品ではない」と低い声で述べた。
