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    「海賊」と聞いて、海外の物語で知られるパイレーツや世界的人気アニメ『ONE PIECE』を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、日本の海にも海賊たちは実在した。瀬戸内海の歴史研究家が、さまざまな顔を持つ“海の民”の実態を解説する。

    海賊が持つさまざまなイメージ

    海賊を歴史的に論じるのは難しい。人によって海賊のイメージが異なるからである。イメージの相違が生じるのは、「海賊」の呼称が全く異なる二つの使われ方をしているからだ。まず確認しておきたいのは、海賊とは、日本の歴史上に実在した海上勢力であるということだ。

    一方で世界各地には、カリブ海を拠点に大西洋で活動したパイレーツをはじめ、特色ある海上勢力が数多く存在する。これらを総称して海賊と呼ぶことが多い。近代に入り、パイレーツの日本語訳として「海賊」が当てられたため、海外の海上勢力のイメージで日本の海賊を語ることが往々にして見られる。つまり、言葉によるイメージの混同である。

    例えば、日本の海賊が海の無法者、略奪者として語られる場合、その多くは非法行為をしたパイレーツのイメージで、実像とはかなり異なる。あくまでパイレーツはパイレーツであり、一緒くたにして海賊と呼ぶのは正しくない。本稿ではそのことを示すために日本の海賊の実像を明らかにする。

    古代から中世にかけて海賊が横行していた瀬戸内海(PIXTA)

    古代から中世にかけて海賊が横行していた瀬戸内海(PIXTA)

    日本史上の海賊は、四つの顔を持っているというのが私の考えである。第1の顔は、ナワバリの海域で通行料を要求する「土着的海賊」。第2の顔は、荘園領主や国家権力に抵抗した「政治的海賊」。例えば、10世紀前半の藤原純友が海賊の統率者として知られるのは、当時の政府に対して海上勢力を率いて反乱を起こしたからである。もともと藤原氏出身の中流貴族だった純友は、当初は伊予国(現在の愛媛県)の地方官として瀬戸内海の海賊取り締まりに当たっていたが、さまざまな行き違いから真逆の立場に身を置くことになった。彼を海賊と呼ぶのは、権力側の意図によるものと言える。

    さらに第3の顔は、航行する船舶を他の海賊から守り、代わりに警固料を徴収する「安全保障者としての海賊」。そして第4の顔が、主として戦国時代になってから、各地の戦国大名の下で海上軍事力を担った「水軍としての海賊」である。

    このうち前者の二つの顔は、一般社会から見ると負のイメージが色濃くまとわりついて見られるが、後者二つの場合は逆にプラスイメージで語られることが多い。

    海賊・村上武吉(たけよし)が1581年に発給した「過所船旗」(山口県文書館所蔵)。通行許可証の役割を果たした

    海賊・村上武吉(たけよし)が1581年に発給した「過所船旗」(山口県文書館所蔵)。通行許可証の役割を果たした

    瀬戸内海の覇権を握った海賊

    どのタイプの海賊像も、時間とともに推移していく。史料に残る「海賊」の語をタイプ別に時系列で整理すると、古代から土着的、政治的海賊が存在するのに対し、安全保障者、水軍としての海賊は中世後期になってから登場する。古くはもっぱら反社会的とされた海賊が、後にプラスイメージで捉えられるようにもなったといえる。

    海賊は日本各地で活動したが、古代から物流の大動脈だった瀬戸内海は最も活発だった。中でも戦国時代に大きな勢威を有していたのが、安芸国(今の広島県)と伊予国にまたがる芸予諸島の多島海をナワバリとした村上海賊である。16世紀後半の日本に滞在していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、村上氏の統率者の一人、村上武吉を「日本最大の海賊」と呼んでいる。ここからはその村上海賊をもう少し深掘りしてみたい。

    左:能島村上家伝来黒韋威(くろかわおどし)胴丸 右:武吉が着用したと伝わる陣羽織(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    左:能島村上家伝来黒韋威(くろかわおどし)胴丸 右:武吉が着用したと伝わる陣羽織(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    戦国時代の和船模型。左から最大の軍船「安宅船(あたけぶね)」、中型の主力船「関船(せきぶね)」、小型で機動性に優れた「小早船(こはやぶね)」(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    戦国時代の和船模型。左から最大の軍船「安宅船(あたけぶね)」、中型の主力船「関船(せきぶね)」、小型で機動性に優れた「小早船(こはやぶね)」(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    村上海賊は、能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏という拠点の島名を冠した勢力の総称であり、しばしば三島村上氏とも呼ばれる。三者の間には同族意識があったが、いつも一緒に活動していたわけではなく、時の情勢に応じて対立と協調を繰り返した。能島村上氏は最も独立性が強く、来島村上氏や因島村上氏は伊予国の河野氏、安芸国の毛利氏など周辺の戦国大名との結びつきが強かった。

    村上海賊の特色のひとつは、拠点とする城郭にある。能島城や来島城(共に愛媛県今治市)は、周囲1キロに満たない小さな島全体を要塞(ようさい)化したもので、海城(うみじろ)と呼ばれている。海城には、多くの山城のような堀や土塁がない代わりに、周囲の海面が堀となり、激しい潮流が土塁の役割を果たすので、防御性に劣るわけではない。海城の多くは、海上交通の要所となる瀬戸や入り江の周辺に位置し、行き交う船舶を監視する役割を果たしていた。

    現在は無人島の能島は全周約860メートル。城跡からは建物と生活の痕跡が見つかっている(筆者提供)

    現在は無人島の能島は全周約860メートル。城跡からは建物と生活の痕跡が見つかっている(筆者提供)

    来島は全周1キロ以下で有人島としては瀬戸内海最小。岩礁には中世の桟橋跡とみられる多数の柱穴が残る(筆者提供)

    来島は全周1キロ以下で有人島としては瀬戸内海最小。岩礁には中世の桟橋跡とみられる多数の柱穴が残る(筆者提供)

    海賊の黄金期だった乱世

    海賊の活動は、平時と戦時では大きく異なる。平時においては、海上交通の要所に関所を設けて通行料を取り立てたり、警固料を徴収したりしていた。船の護衛システムが進化すると、海賊は自ら同乗する代わりに自家の家紋の入った旗を与えることもあった。船舶はこの旗を掲げることで安全に航海できたのである。

    一方、戦時においては、手を組んだ戦国大名の水軍として力を発揮した。村上海賊の名をとどろかせた最大の海戦は、1576(天正4)年7月の第一次木津川口合戦であろう。織田信長に包囲されて窮地に陥っていた大坂本願寺を救援するために、毛利氏が水軍を出動させ、織田方水軍と大坂湾の一角で衝突した。村上海賊は三家そろって毛利方水軍の主力となり、勝利に大きく貢献した。織田方の史料には、海賊衆は「ほうろく火矢」と呼ぶ一種の爆弾を用いて織田方の水軍を焼き打ちにしたと記されている。どうやら村上海賊が得意とする戦法だったらしい。

    しかし、後に天下を治めた豊臣秀吉によって海賊活動の停止が命じられると、村上氏をはじめとする海賊衆は、新しい生き方を余儀なくされる。一部は豊臣政権下の大名として自立し、多くは毛利氏など大名の家臣となり、日本の歴史から消えていった。

    第一次木津川口合戦イメージイラスト(香川元太郎画・今治市村上海賊ミュージアム提供)

    第一次木津川口合戦イメージイラスト(香川元太郎画・今治市村上海賊ミュージアム提供)

    「ほうろく」イメージ復元。煙硝・硫黄・炭などを混合した火薬を丸めた一種の爆弾である(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    「ほうろく」イメージ復元。煙硝・硫黄・炭などを混合した火薬を丸めた一種の爆弾である(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    海賊が栄華を極めた多島海

    かつて村上海賊が繁栄した芸予諸島には現在、島々を大橋で結ぶ自動車道「しまなみ海道」が通っている。併設された全長70キロの自転車道には、国内外から年間約30万人がサイクリングに訪れる。そのコースこそが、まさに海賊の舞台であり、海城ゾーンなのである。

    愛媛本土から橋を一つ挟んだ大島の宮窪地区は、能島村上氏の陸の拠点だった。能島を望む海辺には「村上海賊ミュージアム」があり、豊富な資料から海賊の実像に迫ることができる。またミュージアム正面の漁港からは、能島の周囲を巡る潮流体験クルーズ船も発着している。

    多島海の雄大な風景を眺めながら、この特異な地形が生んだ海賊の歴史に触れれば、さらに深い旅の楽しみを味わうことができよう。

    とりでをイメージした外観(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    とりでをイメージした外観(今治市村上海賊ミュージアム提供)

    クルーズで能島周辺の渦巻く潮流を目の当たりに(PIXTA)

    クルーズで能島周辺の渦巻く潮流を目の当たりに(PIXTA)

    宮窪では毎年7月、復元した小早船による「水軍レース」を開催。村上海賊の雄姿を今に伝える(愛媛県観光物産協会提供)

    宮窪では毎年7月、復元した小早船による「水軍レース」を開催。村上海賊の雄姿を今に伝える(愛媛県観光物産協会提供)

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