ナチス時代の情報網を引き継ぎ、KGBの二重スパイや機密漏洩に翻弄された組織の歴史から何を学ぶか
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2026.10.30(金)
ヨーロッパ 安全保障
ラインハルト・ゲーレン(1972年4月7日撮影、写真:ALBUM/アフロ)
日本の対外情報機関創設に向けた議論と、ドイツBNDの70年
2026年7月、日本では国家情報局が発足した。さらに政府は、海外でのインテリジェンス(情報活動)を強化するため、対外情報機関の創設に向けた検討を進めている。
しかし、対外情報機関は創設すれば国家の安全保障が強化されるという単純なものではない。敵国の秘密を探る組織が、逆に敵国のスパイに内部から侵食され、国家の機密情報を奪われる危険性もあるからだ。
日本は独自の対外情報能力をどこまで持つべきなのか。そして、その活動を誰が、どのように監督するのか。
こうした問題を考えるうえで、参考になる国の一つがドイツである。
ドイツの対外情報機関である連邦情報局(BND)は、今年、創設70周年を迎えた。その人的・業務上の前史は、ナチス・ドイツの陸軍情報部門にもつながる。
冷戦期にはソ連との情報戦の最前線に立ち、冷戦終結後には国際テロや大量破壊兵器の拡散防止へと活動を広げた。しかし、その過程で数々のスパイ事件や不祥事も経験してきた。
そして今年10月、元長官のアウグスト・ハニング(August Hanning)がスパイ容疑で逮捕されるという異例の事件が起きた。
対外情報機関のトップ経験者がスパイ容疑で拘束されるという前代未聞の事態は、ドイツのみならず、同盟国や友好国にも衝撃を与えている。
この事件は、ドイツの情報機関が長年抱えてきた構造的課題を改めて浮き彫りにした。
BNDは、米国の中央情報局(CIA)、英国の秘密情報部(MI6)、イスラエルの対外情報機関モサドなどに比べ、日本でその実態が紹介される機会は少ない。
しかし、情報機関の能力を高めることと、その活動を民主的に統制することを両立させようとしてきたBNDの歴史は、今後の日本に多くの示唆を与えるものである。
本稿では、BNDの起源から現在に至る70年間の歩みをたどり、その成功と失敗、そして今日直面している課題について考察したい。
BNDの起源――ゲーレンとは何者か
ドイツの主要な情報機関は、国外情報収集を所掌する連邦情報局(BND)、国内の情報収集を担当する連邦憲法擁護庁(BfV)、そして連邦軍の防諜機関である軍事保安局(MAD)に大別される。
BNDの起源は、第二次世界大戦後に設立された「ゲーレン機関」にある。その創設者ゲーレンとは、どのような人物だったのか。
ラインハルト・ゲーレン(Reinhard Gehlen)は1902年、ドイツのエアフルトで軍人の家庭に生まれた。
第一次世界大戦後の1920年、ワイマール共和国軍に入隊したゲーレンは、有能な砲兵将校から参謀将校となり、1942年、陸軍最高司令部の東方外国軍課長に抜擢された。
東方外国軍課は、ソ連軍に関する情報収集と分析を担当していた。
1944年10月頃、ゲーレンはドイツの敗戦と、戦後の西側諸国とソ連との対立を予測するようになった。
1945年3月初旬、ゲーレンは厳選した数名の参謀に対し、ソ連に関する情報資料をマイクロフィルムに複写するよう命じた。
そして、そのマイクロフィルムを防水容器に詰め、オーストリア・アルプスの複数の山間の牧草地に分散して埋めた。
翌4月、ゲーレンは東方外国軍課長を解任された。
終戦後、ゲーレンは米軍に投降し、米国内で尋問を受けた。結果として、ゲーレンは自らが保有していた対ソ連情報と人脈を背景に、米国の下で情報活動を行うことになった。
ゲーレン機関は当初、米陸軍の軍事情報部門の管理下に置かれ、その後、CIAの管理下で情報活動を実施するようになった。
西ドイツが建国される以前から、ゲーレン機関は米国が主導する対ソ連インテリジェンス体制の一部となっていたのである。
ゲーレンについては、ナチス・ドイツの国防軍や情報機関に所属していた人物を組織内に多数登用したとして、批判する向きも多い。
実際、こうした人員構成は、後にBNDが経験する防諜上の問題とも無関係ではなかった。
一方、第二次世界大戦後、国家としての主権が制限されていた西ドイツにおいて、1956年、国家情報機関としてBNDが創設されたことには大きな意味があった。
ゲーレンとゲーレン機関の歴史的評価には大きな議論があるが、BND創設の礎となったゲーレン機関の貢献を過小評価することはできない。
ただし、旧体制の情報要員を活用して短期間で組織を構築したことは、情報収集能力の確保と引き換えに、組織内部の忠誠心や機密管理に関する問題を抱え込むことにもなった。
